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るように言われました。母乳が悪いので近所のお母さんからもらい乳をし、お医者は毎日、手当てに来てくださいました。そして、三ヵ月ほどでどうやら一命を取り止めました。
手厚くお世話になったのに、音の方を見ない常と違うことに気付きました。可哀想な子になってしまった。仮死状態で生まれたのだから無理ないと思いました。でも、小さいながら成長し、二歳のときにヘルニアの手術をし元気になりました。
その後、耳のことで京大病院、日赤病院などで受診しましたが、見たてば同じで手術は無理。痛い目をするだけ可哀想だから教育を受けるよう言われました。いろいろと考え、いっそのこと帰らぬ遠くへと思ったことも度々でした。
私の家はサラリーマンでお姑と長男、長女、そして本人と妹と私たちで七人家族でした。子供は元気で六歳になり滋賀県立聾話学校に入学することになり、二十九年四月、入学式には主人と三人で出席しました。
胸に名前「たかし」と書いたリボンをつけ子供は大喜びでした。そのとき二年先輩の生徒さんが、「たかし」と呼んでくださったのです。「お父さま字が読める。お話しもできる。よかったよかった。入学してよかった」と、子供を抱きしめ嬉しくて泣きました。
家はお姑にたのみ毎日、通学が始まりました。一年の担任は大林みつ子先生でした。何一つわからない子供に親以上の絆を持ち、それはそれは一生懸命に教えてくださいました。先生は今も元気でいらっしゃいます。
親も三年間、ともに学び四年生から一人で通学しました。甲西町から二年先輩の女生徒がと

 

 

 

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